高齢者ドライバ- (5)

 実家の父親は、85歳になるちょっと前から、運転を止めています。
 管理人が見て「独居が困難になりつつある」ように思えた状況で、管理人が実家に戻ったので、「もう運転しなくても生活には困らなくなった」ということなのですが.....
 管理人の場合は、「自分が定年退職する」よりも前に「父親が運転出来なくなる」と考えていたので、管理人は会社を早期退職して、「第2の人生」を考えつつ、ちょくちょく帰省しながら、様子を見ていたんです。

 

 

 さて、最近の父親を見ていると、「日常生活がこんな感じでは、運転を止めて正解だったんじゃないの?」と思うことが、日々いくつもあります。

 

1) 価格表示のこと

 スーパーに買い物に連れて行くと、例えばトマトを買うとき等、値段の表示が「1個いくら」なのか、「1パックいくら」なのか、「100gいくら」なのか、そこまで注意が回っていないときがあります。
 惣菜を買うときにも、「パックの大きさ」が明らかに違うのに、何で値段が違うのか判らなかったりとか.....
 「視野」が狭くなっていて「値段」しか目に入らず、運転中も同様に「かなり狭い範囲しか見ていない」ということになるのかと思います。

 

 

2) 特売品

 消費期限切れが近く、もうすぐ「売り物にならなくなる」と判っているものが、安く売られているのですが、それが理解できず、「これを大量に買って、何日も続けて食べれば節約できる」と考えるようで、実際には食べ切る前に「クタクタ」になってしまいます。
 レジで払うお金を「5円でも、1円でも、少なくしたい」ようなのですが、「ちょっと長い目で見れば、こっちの方がトク」ということが、なかなか判らないようです。
 高齢になると、想定できる「時間軸」が狭くなっていくのでしょう。運転する時も「この先どうなるのか」予測できなくなってくるのではと思います。

 

 

3) 複数のことを同時に頭に入れて、「どうするのが合理的?」という判断をすることが出来ません。

 財布の中にあるお金を小銭を含めて全部出して、レジのお姉さんに数えてもらっていることがあります。
 「支払いがいくらなので、自分の財布の中を見て、どの紙幣と硬貨を使うと、小銭が溜まらず最適か?」を考えるのは、その度に柔軟で複雑な思考が必要なのでしょうね。若い頃には「簡単なこと」だったのでしょうが.....
 こっちで支払っちゃうと、ますます頭を使わなくなり「ボケが進むのでは?」と考えているので、横で見ています。 「あと○○円あると、お釣りが半端にならない」などのケースでは、こっちで出していますが.....
 周囲にいる人間が「善良な人ばかり」なら良いのですが、「振り込め詐欺」などにあったら「イチコロ」で、ぜ~んぶ取られちゃいますよね。

 父親からは「銀行に行く」「お寺に行く」などの要望はあるのですが、「こうすれば、効率的に廻れるよね」というアイデアは出て来ず、すべて「単発」で、思いついたら「直ぐ行きたい」「明日行きたい」。
 こちらが「この日じゃないとホントにダメなの? 病院の帰りとか、買い物に行く途中でも良いんじゃないの?」と、長々と説明すると、理解できるようです。

 「お正月」前に、管理人が「おせち料理」を買ってくると言ったのですが、「元日に買い物に行く」と言うので、何を買うのかと聞けば、いつも通りの「パン」「納豆」「豆腐」を買うとのこと。
 「おせち料理」があるから「パン」「納豆」「豆腐」は不要とは思いつかず、管理人が時間を掛け説明することで、ようやく理解できたようです。

 自動車の運転においては、時々刻々と変化する廻りの状況を見て、適切に判断するのが難しくなっているのかと思います。
 交差点で右折するときには、「前方の信号を見る」「対向車を見る」「右折する先の横断歩道を見る」を同時に行って最適な運転をする必要がありますが、父親の言葉を聞いていると、単純に「青だから行って良い」と考えているようで、「対向車がスピードを落としてくれないのが悪い」という思考になっているようです。

 これ以外にも例えば、「炊飯器」の予約や「電子レンジ」の操作をするときに、よく判らない場合には、「取扱説明書」を見るのが最適なのですが、「取説を持ってくるのが面倒くさい」と感じて、あれこれとボタンを押しまくっているようですが、それではいつまで経っても、「正解」には辿り着けません。
 「何とかして~~」と、管理人に訊ねられても、管理人は「炊飯器や電子レンジ」の専門家ではありませんから、取説を見ないことには「正解」は出てきません。
 「急がば回れ」という発想は出来なくて、「早く、早く、早く」ばっかりの様子ですが、これで「車の運転をする」となると、ちょっと「コワイ」です。

 

 

4) 注意が行き届かない

 病院では、会計が済むと今後の予約日時も記載された領収書を貰うのですが、父親の場合は、「首から掛けている鞄に、領収書を入れたつもり」で、実は「鞄とシャツの間」に入れていて落としてしまっていることがあるようで、「鞄にちゃんと入れる」ということが難しくなっているようです。
 そういう時というのは、「早くトイレに行きたい」とか「売店でお茶を買おうとしている」とか、「何か別のことが気になっている」場合で、「領収書を仕舞う」という動作が「おろそ」になっているようです。
 「100均」で¥300で買った鞄ですが、もうちょっと口の開いた大きい鞄に変えようとは思っていて、どうしたら「エラーを、もっと起きにくく出来るのか」を常に考え、改善を積み重ねていくことも「重要」かと思っています。

 

 

5) 自分が今していたことを直ぐに忘れる

 スーパーに行くときには、そのスーパーの「エコ バスケット」を持っていきます。
 これを持っていけば、レジで詰め替えて貰えるので、レジ袋が節約できます。
 買い物に行く前、いつも父親は「エコ バスケット」を目の前に出しているのですが、いざ出掛けるとなると、持ってないことがよくあります。
 「何と何を買うのか」で頭が一杯で、「エコ バスケット」のことは直ぐに飛んでしまうのでしょうか?

 

 

6) 「あれ、何かおかしいな?」と思っても、「自分が間違っているかも?」という発想がない

 ある日、父親が「夕飯だよ」と管理人を起こしに来ました。
 管理人も起こされた時には寝ぼけていて、「あれ~、随分寝ちゃったかなぁ~」と思っていましたが、デジタル表示の時計を良~く見ると「午前6時」です。
 父親は、目が覚めた時に時計を見たら「6時」だったので、「夕方の6時」と思ったとのこと。
 外の明るさがいつもと違うので「何か、おかしい」と父親も感じていたようなのですが、自分が「朝の6時」と「夕方の6時」を間違えているとは、思いも拠らなかったそうです。
 これって、「高齢者ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えても、なかなか気が付かない」と云われるのと似ているような気がします。

 

7) 記憶がおかしい

 何日か前に管理人が時間を掛けて「こうした方が良いよ」と父親に説明したことを、「今、自分が発見したこと」として、父親が説明を始めます。
 遠い昔の記憶が書き換わってしまうことは無いようなのですが、最近の記憶は書き換わってしまうことがあるようです。

 

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 父親を見て「呆れる」わけではなく、「何年か経つうちに、徐々に自分もこうなっていく」「将来の自分を見ている」と思って、注意深く見ています。
 父親の場合は「認知症」という状態にまでは達していないと思われますが、「もしもこの状態で車を運転する」となると、ちょっと不安になりますよね? (「車を運転する」以外のことは、ひとりで出来ています。)
 自動車を運転する親にこういった兆候が現れていたら、「自分が助手席に乗って運転させてみる」のもいいのかもしれません。  

 さて、管理人のように「実家に戻って来れる」場合、話は簡単で、「如何にして早く引っ越して来ようか?」を考えるだけで良いのですけど、「自分も妻も会社に勤めていて、子供も学校に通っている」「持ち家がある」といった場合は、そう簡単には行かないでしょうね。
 そういったケースでは、「施設に預ける」とか「自分が今いる場所に引っ越してきてもらう」といった方法が採られるかと思いますが、「リロケーションダメージ」というのもあります。
 長年住み慣れた場所から引っ越すことで、生活環境が大きく変化すると、それがストレスになり、心身に影響を与えてしまうことで、若い方よりも高齢者に起き易いようですし、若い方でも起きないとは限りません。
 ホントに「簡単な話」ではないと思います。
 管理人が糖尿病を発症したのは、転勤して今までとは全く違う製品 ( 家電などの量産品 → 重電などの一品モノ) に携わるようになった直後でしたが、今思えば、転勤も糖尿病発症の一因だったんじゃないの?とは思います。
 「何言ってんの? あなたの脆弱性、あるいは生活習慣が原因でしょ!」と言われれば、返す言葉もありませんが.....

 

 

 さて、今日では「人生100年時代」と云われる一方で、「がん」とか「認知症」については、不安になるような報道がされています。
 しかしながら、過去には「人生50年」と云われていた時代もあったように記憶していて、その頃に比べて人間の脳や筋肉、間接、臓器などの耐久性が急速に伸びているはずがなく、「生活環境や栄養状態、衛生状態が向上した」、「昔なら諦めるしかなった病気でも、救えるようになった」ことが理由のなのでは?と思います。
 また、「人生100年時代」とは云っても、「100歳まで生きる人が増える」という意味であって、「平均寿命が100歳」になるのには、まだかなりの年月を要するのではないでしょうかね?

 人類の英知が様々な病を次々と「治せる病」にしていく過程で、まだ克服し切れていない「強敵」が、「がん」や「認知症」などかと、管理人は思っていて、将来それらを克服できたとしても、その先に「更にワンランク上の強敵」が現れるのではないか?と想像します。

 全ての人が「寿命 ( = 老衰) 」で亡くなっていくような世の中が理想なのか?と思いますが.....

 

 

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